私は覗きたい/とみやまあゆみ
進路を考えた時、「演劇」か「歴史」だと思った
歴史って言っても戦国武将とかじゃなくて、モノの由来っていうか「なぜ現在こうなっているのか」という、物事の「背景」を知るのが好きなんです。今読んでる本も「苗字のルーツ」についての本、面白いです。
以前ゴーギャンの作品が日本に来たときに見た絵があって、そのタイトルが「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」って言うんですけど、このタイトルを見て「ものすごい絶妙だな」って思って。これって自分が考えてることと一緒じゃんって。
これ、演劇にもつながるんですよ。

演劇では他人の人生を覗いてもいい
話すとちょっと長くなるんですけど、私は「街」を歩くのが好きで、ただ家を眺めているだけで楽しいんです。家のつくりとか、表札とか、置いてある物とか、庭の植物とか、洗濯物とか、カーテンとか、そこにあるものを観察して、「何でカーテンそんな微妙に開けてるの?」って考えたりとか。
何でこんなことが好きかというと、その見ている家や住んでいる人の生活は、絶対的に私の生活とは違うからです。家の前の置物も、カーテンが微妙に空いているのも、私にはわからなくても、住んでいる人にとっては理由があると思うんです。
私は覗きたいんです。その理由、私の持ってない人生や生活を。
でも覗けないじゃないですか、リアルの世界では。やっちゃダメじゃないですか。でも、演劇では覗いていいんですよ。なんでそうなったのとか、どうしてそうならざるを得なかったのか、その理由を。
目の前にあるコトの背景を覗こうとすること。それは最初に話した物事の由来だったり、ゴーギャンの絵の「どこから来てどこへ行くのかとか」と近いなと、私は感じてるんです。
何故それに興味があるかと言われると困るんですけど、興味があるんです
初めて自覚したのは、以前高校生とのワークショップの企画をした時に、何やろうってすごい悩んだ時で、その時に「私街歩くの好きだった」って思ったんです。
この興味ってどこから来るのって考えて、物事の背景を知りたいと思っている自分に気づいて。これを使って高校生と何かできないかな、演劇で何かできないかなって企画して、それから何年間か、私の興味は「街」のままなんです。
一人ひとりの別の人生があって、それが集合しているのが「街」じゃないですか。出会うかもしれない、出会わないかもしれない、でも同じ電車に乗ってたりするし。面白いですよね。
私は私の知っていることしか知らない。私から見たら他人でも、その一人ひとりに、その人しか持っていない経験がある、だから話すと面白い。他人によって自分の知らない部分が引き出されたりもするし、これってすごい演劇的だなって思うんです。
私は他人にはなれない、芝居をするときでも。
だって自分がやってるから。
戯曲にはある役の「行動」しか書かれてないので、例えばAっていう状況からBっていう状況になるときに、その間に何があったんだってことを俳優は想像しないといけない。行動の背景を想像する、この先どうなるんだろうと想像する、これは演劇の本質に近いと自分では思っています。
自分がお客さんの立場で舞台を観る時は、さっきの街歩きの話で例えると、住宅街を歩いて「普段見れない他人の家の中」を覗いている状態だと思うんです。
でも俳優の立場では、戯曲に書かれている「自分と違う人物」を、自分の思考を通して理解して、できるだけ戯曲に寄り添いながら、どこか自分にしか見つけられないことを探さなければならない。俳優は「役」と「自分」を出会わせることで今までになかった価値を生み出さないといけない。
そうじゃなきゃ、これだけたくさんの人が同じ役をやる必要ってないんですよ。シェイクスピアなんて何千回もきっと上演されてますよ、それは演出家や俳優によって物語に新しい側面が生み出され続けてるからだと思うんです。
舞台の上で「本当に人間が生きている姿」を見たいんです、それができたらと思ってます。
何の話でしたっけ、これ自己紹介でしたっけ、、、
ま、こんな思考を持ってます。
「この舞台を今やる意味」と向き合う
「なぜこの演劇が今ここにあるのか」を考えないといけないと思ってます。今回ほとんど役は高校生で、でも俳優に高校生は一人もいない、その上でこの舞台をやる意義を自分は意識しておきたい。
田上さんは「高校生が作った演劇を、高校生じゃない人たちがやる理由」を持っていて、ちゃんと表現しようとしていると思うんです。
まず、そこはやらなければいけないと思ってます。
私たちは基本的に戯曲に則って稽古するんですけど、そうすると1ヶ月一緒にいても共演者のことあまり知らなかったりするんですよ、面白いですよね。
でも、田上さんはいろんなゲームをしたり、思い出話を一人一人話す時間をつくったりしてくれて、そうするとその人の人柄だったり、言葉の選び方だったり、集団の中での佇まいだったり、語り口とか、持っている思い出の質だったり、人との関わりかただったり、そういうのが見える時があるんですよ。それを丁寧にやってくださっているのを感じてて、だからこそ田上さんの目指すところまでたどり着いてみたいとは思ってます。
高校生では見えなかった景色を見せたい
初演を実際の高校生と作っている、でもそこで見えなかったこと、もっと見たくなったことがあると思うんです。それをしっかりカタチにしたい、じゃなきゃ「何で今これをやったの」ってことになるので。
今の日本では、高校生だったことのある人はとても多いです。
あの時鋭く感じていた感受性は、今多分ほとんどないんですよ。いろんなものを獲得していった代わり失っていると思うんです。それと向き合うのは怖いのかもしれない、でもそんなもんですよね、生きてるって。
『Q学』は、たぶん上手くやっても意味がないんですよ、綺麗にうまくやっても意味がないと感じてて。何でかというと、高校生の痛みって「無骨」だから。ゴツゴツしているじゃないですか。もやもやしながらも微妙に、繊細に、そのゴツゴツしているものが存在していることを作るのはすごい大変だと思います。
初めて見る世界をつくり続けたい
芝居をし続けたいです。
それって難しいことだと思ってて、オファーも来なくなるかもしれないしオーディションも受からないかもしれないし。芝居をし続けるために、獲得していかなければならないこともある。
私は「来てくれたお客さんが初めて見る世界を観せられたら」と思ってます。
明日生きるために、この演劇があったらいいなと思うし、新しい価値観とか、ちょっとあの人に話しかけてみようとか、初めて行く道を歩いてみようとか、ちょっと冒険してみようとか、そういう力を与える演劇をしたいし、そういう舞台に立ちたいと思ってます。
人は、死ぬまで生きないといけないし、生きている以上よりよく生きていきたいと思ってると思う。
そのためには「明日がちょっと楽しくなればいい」。そのための活力を演劇は与えられると思ってて。だから俳優は、お客さんのために本当にそこで身を切られるような思いで立っているべきなんだと思う。
それを私自身ができているかはわからないんです、劇場を出た人の人生を私は知らないから。
演劇に出会わなかった自分は想像できない
「何で俳優やろうと思ったの?」って質問をよくされますけど、私はそこに興味を持っちゃったんですよ。出会っちゃったんです。私からすれば、何で出会わなかったのって聞きたい。
出会っちゃったんです、それができたらどうするじゃなくて。
ー観に来てくれる観客にメッセージをお願いします
感想を聞きたいです
出口で伝えてくれてもいいし、もしツイッターとかでつぶやいてくれてもきっと見てるし。
私たちは書かれている文字から始まって、書かれていないところまで作り込んで表現しているけど、それを観た人がどう受け取るかはわからない。受け取ったもので文字にできることって少ないと思うんです。だから、「お客さん一人一人にとって私たちの演劇との出会いはどうだったのか」っていうのはすごい興味があります。
観劇はお金もかかるし、わざわざ劇場まで来てもらわないといけない。でも、そこには大きな出会いがあるかもしれない。いい舞台にするために頑張ってます、じゃないとやる意味がないと思うので。